2009年07月05日

柴崎友香「その街の今は」は、何ともいえず、いい後味だった。

柴崎友香は、初めて読む作家だったけど、「その街の今は」は、何ともいえずいい感じだった。

若い女性の持つ繊細でデリケートな感じがよく出ていたと思う。
しかも、舞台が大阪という点がよかった。主人公の女性など、主要な登場人物が自分が生まれて育った街を愛している様子が、何かいい。
大阪というと、ついつい、漫才などの影響で、うるさくてガサツ、という型どおりのイメージしかなかったせいで、余計、この2つの点が目立った気がする。

あと、主要なモチーフとして、女主人公と、彼女が何となく親しくなる男性の2人が、ともに昔の大阪(主人公たちが生まれるよりもずっと昔、50年前とかもっと前の大阪)の写っている写真にものすごく興味があるという点も、何故か、すごくよかった。何十年の大阪のある場所、いまはまったく違った様子の場所の写真を見て、そこを実際に見てみたいと思う主人公の気持ちを、そのまま違った形で小説にしたのが、ジャック・フィニーだと思うけど、ジャック・フィニーの小説が好きだったように、私にはそんな気持ちのあり方がよく分かる。

女主人公とその男性が親しくなるポイントとして、そんな変わった趣味、関心が共通しているということがあると思う。自分が好きなことを一生懸命説明した後「それって、何が面白いの?」と聞かれたら、その人とは、根本的な価値観、趣味が合わないと思うのではないかな。逆に、ちょっと説明しただけで、「それって、面白いよ!!」という反応がある人は、かなりの確率で趣味・関心が近いということが分かる。
そういう部分が、人と人との相性ということなのだと思う。
そんなデリケートな部分も、いい感じで描かれていて、読んでいい気分になった小説だった。

ナベ<2009年7月5日>(柴崎友香「その街の今は」新潮文庫 160ページ弱)
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2009年07月01日

40年ぶりに読んだ「怪盗ジバコ」。

北杜夫「怪盗ジバコ」を読む。中学生の頃、北杜夫は人気があり、初めて読んだ彼の本が「怪盗ジバコ」だったので、40年ぶりに読んだことになる。新聞の読書欄で、北杜夫の特集があり、その中で久しく絶版だった「怪盗ジバコ」が、違う文庫で再刊されたということが書かれていたので懐かしい気持ちもあり、買って読んでみた。
「怪盗ジバコ」が出版された頃などは、本についての世間一般の価値観が生真面目一辺倒であり、ユーモア小説というか冗談本というものは、レベルの低いものという見方がされていた記憶がある。そんな中で、ユーモア小説、ユーモアエッセイの類で、読んでいて恥ずかしくなかったのは、北杜夫と遠藤周作の狐狸庵先生もの位だったかな・・。
そういうことで、懐かしさで読んだけど、残念ながら、古さ、時代の違いを感じてしまった。例えば、大英帝国が誇る諜報部員007を手玉にとる「怪盗ジバコ」というエピソードは、それが笑えるのは007がものすごい人気を誇っていたという背景がないと、軽いギャグの連発でしかなくなってしまう。さらにいうと、お笑いがテレビの主流になっていている現在の感覚からすると、冗談が軽い、突き抜けていない感じがする。この40年で、日本社会の笑いの質が大きく変わったことを感じた。

ナベ<2009年7月1日>(北杜夫「怪盗ジバコ」文春文庫 310ページ強) 
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2009年06月30日

「シチリアの晩祷」を読み、改めて、中世の国家は、現在の国家はまったく違っていることを痛感した。

高校時代の同級生で、医者の安藤巌夫クンのお薦めの本の一冊、スティーブン・ランシン「シチリアの晩祷」(祷は、本当は正字でもっと難しい字)を読む。550ページを超す大著で、しかも慣れないイタリア人、フランス人、ギリシア人、スペイン人、イギリス人など西欧の人間が、スゴイ人数登場する歴史書なので、読むのにかなり手間取り、途中、違う本を何冊か読んだこともあり、読み上げるのに2週間以上かかってしまった!今年上期の中では、時間的にいって一番の読書だった。
先月読んだ「添乗員の参考書 魅惑のスペイン」のカタルーニャの項に「シチリアの晩祷」について触れた部分があり、安藤クンから何年か前に薦められた本の中に、この本があることを思い出し、神保町に行き、本屋でこの本を探し出した。

この本を読んでつくづく思ったのは、国家というものが、安定的で絶対的なものであるというのは、きわめて近代的、この200年くらいのものでしかないということだ。
また、13世紀のヨーロッパでは、国王や領主個人のさまざまな能力、政治手腕、軍事的能力、さらには人望といったものによって、その人物が支配する国の広さ、大きさに違いが出て来るということが、よく分かった。

この本を読んで通史を別にすれば、「十字軍」の歴史などを読んだことがないことを改めて、認識し、同じ著者に「十字軍の歴史」があるようなので、近々、読んでみるかと思った。

ナベ<2009年6月30日>(スティーブン・ランシン「シチリアの晩祷」太陽出版 単行本 550ページ強)
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2009年06月29日

「東京の地下鉄 ぶらぶら散歩」は、散歩本の欠点が目立つなあ。

鈴木伸子「東京の地下鉄 ぶらぶら散歩」という本を本屋で見付けて、思わず買って読んだ。最近、私がこっている階段・坂道歩きは、最寄の駅(地下鉄が多いなあ)を探し、最寄駅からその階段・坂道に行く際、どのようなコースをたどると面白いかを考えてから歩くので、まさにこの本の題名そのまま!従って、歩く前の事前検討をする際に、参考になる本がいろいろとあると助かる。

そういうネライで、この本を買って読んだけど、ウーン、よくある散歩本の一冊でしかなく、その手の散歩本の欠点が目立ったなあ。
一言でいうと、そこの浅い散歩本!
こういう本を、ロクに読んだことのなく、街歩き初心者用かな。

著者は、さほど下町方面に詳しくなく、取り上げる下町としては、浅草、門前仲町、人形町、月島といった辺りで、他の本に出ているようなレベルの話でお仕舞い。この本は、せいぜい、三ノ輪、押上、南砂町、築地市場辺りを加えて程度で、それも大した情報もないし、独特も視点もないと感じた。
取り上げている30の駅というテーマの選び方が、どうも雑に感じられる。どうしてこういうところを選ぶのかなあと疑問に思うところがあるのは、選んでいないところについて、ただ単に、著者が知らないから、取材していないから、という安易な理由からとしか感じられない。
確かに、雑司が谷や白金台という選択は面白いけど、日本橋と三越前を分ける理由が分からないし、大手町を選ぶならば東京か日比谷の方がいいと思う。
山手線の西の地下鉄の駅を選ばない理由が分からない。中井や落合、中野坂上、代々木上原、戸越なども、結構、街歩きスポットとしては面白いと思う。
東や北ならば、王子や森下などもあるのではないかと思ってしまう。

まあ、そういうことで文句ばかりの感想になったけど、もうちょっと工夫があると、結構、面白い本になったのになあ、という気持ちがあるので、辛口のコメントになったということですね。

ナベ<2009年6月29日>(鈴木伸子「東京の地下鉄 ぶらぶら散歩」実業之日本社 じっぴコンパクト200ページ強)
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2009年06月19日

「日蝕」を読み、文章は内容と深いところでつながっていると思う。

平野啓一郎「日蝕」を読む。10年前に、現役大学生による芥川賞受賞作として話題になった本だ。しかも、中世末期のヨーロッパを舞台に、異端の問題なども取り上げられていて、気になっていたが何となく読まずに来てしまっていた。
先日、エコノミストの水野和夫さんのお誘いで参加した静岡の有度サロンで、著者の話を聞き、何となく読んでみるかという気になり、読んでみた。
明治から大正辺りの漢語の素養をベースとした作者の文章を思わせる言葉遣いで、中世末期のフランスを舞台にして、キリスト教の信仰、正統と異端、錬金術、異端審問と魔女、火刑など、ちょっと大時代的な道具立てで物語が展開する。両性具有者(アンドロギュノス)の登場で、昔、いろいろと読んだ澁澤龍彦や種村季弘などを連想した。
しかし、こういう道具立てとストーリーの展開から、ある種のオカルトとも取れなくもないなとも思えるのだが、間違いなく文学というジャンルに位置する小説になっているのは何の影響が大きいのだろうか、と考えると、文章の力というのも意味が大きいと思い至った。

文章、あるいは文体というものが、書かれた内容と密接に絡んでいることで、物語という形式をとらないと読者には届かない著者の考え、価値観というものを、深く届かせていると思う。
文体とか文章と内容に関係する議論は、文学や小説に限らない話なのだと思う。そんなことを、つくづくと考えた読書だった。

ナベ<2009年6月19日>(平野啓一郎「日蝕」新潮文庫 210ページ強)
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2009年06月18日

これは誤植じゃないのかな!<「東京の小さな喫茶店・再訪」>

少し前に読んだ常盤新平「東京の小さな喫茶店・再訪」の誤植、誤植の可能性のあるものについて書きます。

(1)「かずま」について書いてあるP53の最終行からP54の最初の行
「〜ヘア・スタイルが無造作で、青年業者らしからぬ青年実業家である。」の「青年業者」は明らかに「青年実業家」の誤りですね。

(2)「雲水」について書いてあるP74の最後から5行目
「いまでも火打石の需用がある。〜」の「需用」は、普通ならば「需要」ですよね。著者が敢えて、「需用」と使っているのならば、話は別ですが・・。

(3)「快生軒再訪」の項のP221の6行目から7行目
「私はまだ自分の色を出す見たいみたいなことは出来ません。〜」は変ですよね。「出す見たいみたい」の前の「見たい」は余分ではないでしょうか。

ナベ<2009年6月18日>
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2009年06月16日

「アダルトビデオ革命史」は、意外と大真面目な本だった。

大作を読んでいるので、その気分転換として藤木TDC「アダルトビデオ革命史」という本を読む。要するに、AVの歴史をまとめた新書だけど、結構、大真面目に映像論、産業論としてAVをとらえている。
興味本位で読み出すと、期待にそぐわない類の本ですね。

AVが進展した条件として、ビデオ機器の商品としての進展がある、という指摘は面白かった。また、産業論としてみた場合、その時代時代に主流であった流通のあり方が映像のあり方を規定している、という部分の指摘も、そういう風の話って、これまでこのジャンルの本でそうそう聞いたことがないなあ、と思ったりもした。
映像論の部分は、一番、この著者が書きたかった部分なのだろうけど、アニメとともに日本を代表する映像、というような言い方については、もう少し、突っ込んだ議論がいるのではないかなあと思うけど・・。
AVの演出家などのつくり手のあり方は、意外とこれまでこの本で掘り下げているような議論は少なかったので、新鮮な感じだったけど、もうもうひとつ重要なつくり手である出演者、特にAV女優のあり方については、もう少し、掘り下げた議論がいると思ったなあ。
亡くなった永沢光雄の大作「AV女優」とは違った意味で、この部分について、この著者の突っ込んだ議論を読んでみたい。

ナベ<2009年6月16日>(藤木TDC「アダルトビデオ革命史」幻冬舎新書 260ページ強)
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2009年06月15日

「東京の小さな喫茶店・再訪」を読み、まったく覚えていない項の多さに愕然とする!

常盤新平の「東京の小さな喫茶店・再訪」を読んで愕然としてしまった。
この本は、15年前に出た「東京の小さな喫茶店」の新版であるけど、取り上げられている12の喫茶店のうち、4軒を著者が再訪した文章と、新たに見付けた喫茶店4軒についての文章等が、この本オリジナルで、12の喫茶店についての文章は、前の「東京の小さな喫茶店」に掲載されたものである。15年前に、この「東京の小さな喫茶店」は読んでいるのに、今回、この12の喫茶店についての文章の多くを、まったく覚えていない!という事実に気が付いた。あるお店の紹介のほとんどは忘れていても、あるエピソードは覚えているという風に、まったく覚えていないということは少ないけど、この本の12の喫茶店を紹介した文章の中で、何となく記憶にあるのは、2つくらいしかなかった!それ以外は、読んだことすら覚えていない!
こんなに沢山の本を読み、多くの時間をつぶしてきたのに・・。と、ちょっとイヤになってしまった。

そういう自分の記憶力の衰えを痛感させられる話は別に、この本を読んだのは、「東京ノスタルジック喫茶店」を読んでも玉突き(連想)読書!
15年前に取り上げられた喫茶店12軒の中で、いまも残っているのは5軒に過ぎないということは、喫茶店というものが滅び去るジャンルのお店!ということを示しているのだろうな。「ワンモア」は、先日、偶然に入ったけど、もう1軒「雲水」は、まだ、入ったことがないので、今度、街歩きの流れで行ってみるか、と思っている。早く行かないと、無くなってしまう怖れがあるからなあ。
他の3軒は、入ったことがあるお店だけど、銀座の「ウエスト」も先日、10年ぶりくらいで入ったわけだし、「快生軒」は10年以上前に入ったきりだし、神保町の「かずま」も何年も入っていない!この3軒も、行かないでいるうちに無くなった!ということがないようにしないと・・
また、最近、気に入っている岩本町の「明石屋」が、新たに取り上げられたのは、ちょっと嬉しい。(この本のお蔭で、あそこの寿命が長くなるとありがたいし・・)

ナベ<2009年6月15日>(常盤新平「東京の小さな喫茶店・再訪」リブロアルテ 単行本 270ページ強)
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2009年06月09日

「戦国仏教」は、題名を一般的な用語として理解してはいけなかった。

「仁王」に続いて、同じ中公新書の「戦国仏教」を読む。私得意の玉突き読書!です。
しかし、「戦国仏教」の内容は、題名から勝手に想像したのと、かなり違っていた。
勝手に想像した内容は、一向一揆〜本願寺を代表とする戦国時代の宗教のあり方、時には‘戦闘的’な仏教集団の姿を描いたものということだったが・・・。
そもそも、「戦国仏教」というのは、浄土真宗や日蓮宗、曹洞宗、臨済宗など「鎌倉新仏教」が、本当に日本社会の中に根付き、大きな影響力を持つようになったのは戦国時代でなってからで、そういう戦国時代の「鎌倉新仏教」のあり方、教団の姿、社会との関係性などを指して、最近の歴史学の一部で言われ出した概念だそうで・・。
「戦国時代の仏教」のあり方という風に、「戦国仏教」を一般的な言葉として理解してはいけなかったのですね。

また、鎌倉時代から南北朝、室町時代、戦国時代という中世から近世の初めという時代の日本社会のあり方に関しても、私は数十年前に学んだ頃の歴史学の常識とはかなり違った学説が生まれているようです。
若い頃、歴史が好きで、歴史関係の本はよく読んだけど、すっかりご無沙汰になっている間に、日本の歴史学の主要学説を初め、常識というものが随分と変わったようなので、この機会に最新の日本史の通史のシリーズでも読んで、新しい日本史の常識を身につけるとするかな。

ナベ<2009年6月9日>(湯浅治久「戦国仏教」中公新書 250ページ強)
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2009年06月05日

「仁王」を読み、仁王像についての疑問がさらに深まり、広がった。

一坂太郎「仁王」(中公新書)を読む。
何故、こんな本を読んだかというと、自分でもよく分からないけど、高校時代の同級生の島田裕巳クンが宗教学者ということで、彼といろいろと話をした影響があると思う。この本の題名を見て、仁王像って、お寺の門にあってよく見かけるけど、そもそも、仁王って何なのか、仁王像は何故、つくられたのかといった素朴な疑問がわいたことがある。
で、その素朴な疑問にこの本は答えてくれているのか、というと、その点では一部答えてくれていて、こちらが納得するまでには答えてくれてはいないということかな。しかし、全国にある134の仁王像が紹介されていて、具体的にいろいろな仁王像についての話を読み、仁王というものについて知らないことが多かったことを痛感した。
明治維新の廃仏毀釈で破壊された多くの仁王像の話から、今日、私たちが目にする京都奈良にある奈良時代や平安時代、あるいはもっと前の仏像があのような姿で残ったということは、かなり「奇跡」とも言えるのだと思った。
「仁王」を読んで、また、134の仁王像を直接見て回りたいな、とバカな思いが浮かんだが、これは東京の階段や坂道とは訳が違って、北は北海道から南な沖縄の石垣島までに散在しているので、ちょっとやそっとで出来る話ではないし・・。まあ、関東近郊のもの30対の仁王像を見て回るか。

ナベ<2009年6月5日>(一坂太郎「仁王」中公新書 320ページ弱)
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