2011年08月26日

「逃げない生き方」は、「逃げない」ということよりも、「生きる覚悟」「生きようとする覚悟」についての指摘の方が印象的だった。

友人の宗教学者の島田裕巳クンの新刊「逃げない生き方」を読む。
島田裕巳クンの本を読むのは、今年、これで7冊目。

これまで読んだのは、「人はひとりで死ぬ」「墓は、造らない」「世界の宗教がざっくりわかる」「ブッダはなぜ腹が立たないの」「冠婚葬祭でモメる100の理由」「聖地にはこんなに秘密がある」。
すべて新刊な訳だから、島田裕巳クンはよく本を書くと思う。
これ以外にも、読んでない本が2冊あるのだから、「月刊島田裕巳」を上回っているペースになる!!

「逃げない生き方」は、多作の島田クンの本の中では、「人はひとりで死ぬ」の流れの本だと思う。
「人はひとりで死ぬ」は「無縁社会」論についての考察であったが、こちらは東日本大震災と大津波、福島第一原発の事故を受けての、ある種の人生論、生き方論であり、日本社会論となっている。
とかく、死についての覚悟が議論されることが多いが、その場合の「死」は、極めて観念的なものであり、災害や事故、さらにいえば戦争、テロなどで、「死」は唐突にやって来る。そういう状況下で、死を簡単に受け入れることは、もしかすると、他の人間までも危険な状況に陥らせることになり、むしろ、いかに死なないように、生き延びるか、そのための工夫やら努力をすることが大切なのではないか、という指摘は示唆に富んでいるように感じた。
生き延びるため、とはいえ、そういう状況から自分だけ「逃げ」てしまうことは、後々まで、大きなマイナスになるということから「逃げない」というこの本のキーの単語に繋がっていくのだが、私には「逃げない」ということよりも、「生きる覚悟」「生きようとする覚悟」の方が、この本においては印象的だった。

ナベ<2011年8月26日>(島田裕巳「逃げない生き方」KKベストセラーズ・ベスト新書 220ページ強)


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2011年08月24日

「おれの中の殺し屋」は、映画「キラー・インサイド・ミー」の原作小説。

ジム・トンプスン「おれの中の殺し屋」を読む。
春に観た映画「キラー・インサイド・ミー」の原作ということで読んだ。

「キラー・インサイド・ミー」は、1950年代のテキサスの田舎町を舞台にしていて、時代、場所の空気感がよく出ていたが、連続殺人を犯す主人公の保安官助手の心の動きを、あえて追わずに描いていたため、何故、こういう殺人を犯すのか、浮浪者の手に吸っていた葉巻の火を押し付けるような残虐な行為をする訳がわからず、観終わって不安定な気持ちになったこともあり、原作を読もうと思った。
原作は、主人公の語りで綴られているので、ある種、壊れている主人公の精神のあり方が、薄々分かっていく仕掛けになっている。
また、主人公が最初の殺人を犯した段階で、回りの人間は怪しいと思い始めているのことが、回りの人間との会話の中で示唆されている。
しかし、そうではあっても、女性2人を殴り殺す(一人は未遂だが・・)という暴力の凄まじさ、子供と家政婦の性的関係など、「健全」な50年代のアメリカでよくこんな小説が書かれて、出版されたものだと感心してしまった。

ナベ<2011年8月24日>(ジム・トンプスン「おれの中の殺し屋」扶桑社ミステリー(文庫) 370ページ弱)
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2011年08月22日

「侠客と角力」は、ヤクザ、相撲という本題以外でも、いろいろと面白い要素があって、得した気分になれた。

三田村鳶魚「侠客と角力」を読む。
三田村鳶魚は、明治初年生まれの江戸学者のはしりとも言うべき人で、その人の語りを、柴田宵曲という人が編集した本。三田村鳶魚は、昭和27年(1952年)に亡くなっており、柴田宵曲も昭和41年(1966年)に亡くなっていて、この本のもととなったものは、遠い昔に出たもの。
三田村鳶魚の語りそのものも、いまでは聞くことの出来なくなった明治時代の人のものであり、語り起こしにも関わらず、古典を読んでいるような雰囲気があった。

侠客と呼ばれるようなヤクザがどのようにして生まれたのか、また、相撲の歴史はどうなっているのかを語っている。へぇ〜と思うような話も多く、この中のどの部分は、現在の研究成果からいっても間違いなく、どの部分は誤りなのか、それを別の本でいろいろと調べてみたくなるような内容だった。

この本のメインのテーマであるヤクザ、相撲に関しての話の感想は、そういうものを調べた上で書くとして、この本を読んで面白かったことを2点書いておく。

ひとつは、札つき、ボンクラなど、最近ではあまり使わなくなったが、私が若い頃までには生き残っていた言葉は、元々、どういう意味で使われていたのかを語っているのが面白かった。札つきは、江戸時代の人別帳に関連しており、ボンクラは丁半博打に関連していると。日本語の単語の謂れというものも、日本語論の本ばかりでは分からない、ということを示しているように思う。

また、特に面白かったのは、江戸時代の裁きについて語った1篇で、江戸時代から明治時代にかけての人々の法意識というものを物語っている。「法律は常識であって、専門的なものではない。捌き(さばき)を受ける者が、成程御尤(なるほどごもっと)も千万である、という風に心得るようでなければ、法律の効能はない。」「普通一般の者にわからむような法律もいけないが、捌き方もいけない。一般にわからるようなことをしてはいけない、というのが江戸時代の法家の大眼目でありまして」という指摘は、いまの時代においても大事な法の理解の仕方であると思う。こういう話は、法律の専門家が行う日本法学史などでは語られないことが多いように思う。

そんなことで、この本は本題以外でも、法律の理解の仕方、日本語の謂れ等、いろいろと面白い要素があった。そういうものが多くある読書というのは、本を読んで得した気分になれると思うのがどうだろうか。

ナベ<2011年8月22日>(三田村鳶魚、柴田宵曲(編)「侠客と角力」ちくま学芸文庫 330ページ弱)
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